4月 16th, 2019

学生の時に沖縄に一人で旅行に行ったときに、途中から何だか熱っぽくなったのですが、市販の風邪薬で治そうと思い、薬を飲んで旅行を続けました。しかし、だんだんだるくなったので、仕方なく東京に帰る前日に病院に行きました。春先なので単なる風邪だと思ったのですが、なんと水疱瘡との診断でした。飛行機に乗ると人に移すので、帰京は医者から禁止させられ、沖縄に家がない私は入院となってしまいました。私の入院は今のところこれ1回きりです。何と情けない入院となってしまいました。

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帰京できず入院となったのですが、入院手続きは、少し書面を書くくらいであまり面倒はなかったです。両親にも連絡しましたが緊急性はなく遠方なので、来なくて良いと伝えました。旅行中なので着替えなどはあり入院の支度もなく、本当に楽に入院生活に入りました。病室は、他人に病気が移らないように個室に入れられました。部屋を出るのも禁止で、見張りはありませんが監禁状態でした。

処置も大げさな気がしましたが、最初は点滴を受けさせられました。点滴も恐らく今までで1回きりの点滴だと思います。命にかかわる状態でもないので、いわゆる医者の処置というものはなく、1日1回軽く診察してもらうくらいでした。医者から言われたのは、「ゆっくり休んでいなさい」「人に移さないように病室を出ないように」くらいでした。

入院した時に少し楽しみだったのは、担当の看護師さんがかわいかったことです。石垣島の人だったのですが、旅行の目的は石垣島だったので島についての会話をしました。ところが、何故か次の日は担当が変わってしまいました。悪いことは言わなかったと思うのですが・・。代わりの看護師さんは少し年上になりましたが、優しく部屋に入るたびにカーテンを開けたり、話しかけてくれたのでおかげでその時だけは安心して過ごせました。

入院中は他人に病気を移さないように、病室から出ることを禁じられていたのですが、特に監視もしていないので、熱が下がってからはこっそり病室から出ていました。ちょっとの時間しか出られないので、売店に直行して甘いものを買って、こっそり食べるのは大きな息抜きになりました。普段ならなんでもないアイスやチョコレートバー、ポテトチップがとても美味しく感じられました。

病気が重いわけでもないので、部屋を訪れるのは、お医者さんが1日1回診察で来て、看護師さんが1日1回様子を見に来て、あとは食事を1日3回運んでくる人くらいでした。もちろん沖縄に知り合いはいないので、他には訪れる人はなくとにかく暇でした。一番困ったのは、テレビがないことでした。テレビも見られないのに部屋からも出られないし、当時はスマホなどないからすごく退屈でした。仕方なく看護師さんにお願いして本を買ってきてもらい、それを読んで過ごしていました。これは人生で一番本を読んだ期間かもしれません。個室だしなんだか毎日心細く、楽しみは食事くらいでした。

もう一つ困ったのは、入院中に春休みが終わり学校の授業が始まってしまったことです。看護師さんに了解をもらって、公衆電話から友達に事情を話しましたが、帰京してからの方が忙しく、ノートを色々な友達に写させてもらったり課題を次々に片づけなくてはならず、大変でした。水疱瘡で入院とは聞いたことない、と友人にも驚かれました。あんなにのんびり過ごすことは今後なかなかないだろうと思うので、貴重な経験となりました。

病院では日々様々な業者などが出入りしているのを目の当たりにして、来年からの就職活動では医療関係を目指すことにしました。その中でもフェイスメディカルという会社に興味を持っています。医療器具を扱う商社の中では社員の育成に力を入れており、同じ大学の先輩が就職したので、今度会って仕事内容を詳しく聞かせてもらえることになりました。

4月 1st, 2019

2年前の夏に、急性腸炎になりました。1週間ほどずっとお腹を壊していました。元々胃腸は強い方ではなかったし、その頃初めてのデスクワークで肩こりや頭痛が酷く、痛み止めの薬をよく飲んでいたので、そのせいかなんて思いながら、そこまで深く考えていませんでした。それが1週間ほど経った朝、腹痛で動けなくなりました。とりあえず会社には朝だけ休みを貰い、自力で病院に行こうとしたのですがどうにも動けず、人生で初めて救急車を呼びました。近くの病院へ運ばれ、検査の結果急性腸炎だと言われました。

CT検査や血液検査等受け3日間入院しましたが、受けた処置は結局点滴だけでした。お腹は壊していましたが、血便などではなく普通の下痢でしたし、初めの点滴でお腹の激痛は嘘のように引いていきました。先生には「胃腸は普通より少し膨張しているのが分かるから腸炎なのは確かなんだけど、それ以外は特に問題無い」と言われました。ただ「1週間も下痢だったので脱水症状が出ていたのと、細菌性のものかの判断がまだ出来ないので、とりあえず初日は個室でいるように」と言われました。その間に検便をして検査をしようと思っていたみたいですが、病院に運ばれる前に下痢で全て出し切ってしまっていて、その後は点滴や10倍がゆなどの軽い病院食だったので、結局入院中は便がでず、最終的には先生に「問題もなさそうだしまた何か変化があったら戻って来なさい」と言われて退院しました。

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救急車を呼んだ時、同棲していた彼氏が付き添ってくれました。ちょうど入院と彼の休みが重なったので毎日来てくれたのですが、その彼が外国人である事に病院に搬送された時から始まり、彼が毎日病院に来るたびに看護師さん達がものすごく大騒ぎしていて面白かったです。何故かみんな彼よりの立場に立っていて、搬送されて点滴を受けた時に「痛み引いたんなら早く元気な顔見せに行ってあげり!」と叩き起こされて彼の待つ廊下に出されたり、噂がすぐに広まって彼が病院に来た途端何も言ってないのに私のところまで数人の看護師さんが彼を案内してくれたりしました。

夜間見回りに来てくれた看護師さんは、入ってくるなり「YOUがいたって本当??」と聞いて来ました。どうやら「YOUは何しに日本へ」のファンの看護師さんが多かったらしく、いつも「YOU彼女さんのとこに行くんでしょ?」とか「YOUどこの国の人?」とか、彼は病院では名前で呼ばれる事はなく、ずっとYOUと呼ばれていました。 彼はあまり日本語が話せませんでしたが、何か自分のことを言われているな、とは感じていたようです。

救急車を呼んだ後、念のため母親にも電話しておきました。電話では彼氏もいるし大丈夫と伝えたのですが、電車で直ぐに飛んできてくれました。初めての入院だったので、入院するにあたって何が必要かとかあまり考えていませんでした。痛みが引いて入院することが決まり、必要だと思うものを彼氏に持って来るよう頼んだところ、彼も入院なんてした事がなく、外国人だという事もあり、持って来て貰った袋の中を見てこれじゃない、あれもいるなんて文句を言っていたところに母親が登場し、何も頼んでないのに全て持ってきてくれていました。入院に必要な書類や支払いも全て済ませていて、流石だなと母親を改めて見直しました。

彼氏はまだ日本に来て間もなかったので、どうせ必要なものをキッチリ揃える事は出来ないだろうと母は踏んでいたようで、更に「そういう面では世間知らずだからこうして助けに来たのよ」と言われました。自分よりも人生経験が豊富なのは勿論知っていましたが、改めていつ自分が母親になった時、こうやって迅速に正確に応対しなくてはいけないなと、母の思いやりに感謝しつつ、身が引き締まる思いがしたのを覚えています。

3月 29th, 2019

2012年に帯状疱疹で入院しました。4月は仕事とプライベートで毎日バタバタと忙しくしており、5月のゴールデンウィークの妻の実家にお邪魔している時に、顔面の神経痛およびヘルペスが発症しました。はじめは、歯の痛みが症状として現れました。刺すような痛みがとてもつらく、痛みに弱いわけではないのですがさすがに耐えられなくなってきました。

義父に、緊急の歯医者に連れて行ってもらいましたが、虫歯ではなく神経痛と診察されました。その夜、口の周りに発疹ができ始め痛みもヒドくなりました。ネットで症状を調べ帯状疱疹かもと思い帰宅後皮膚科に受診すると、即座に帯状疱疹と診断され近くの大きな病院に入院となりました。

即入院となったのでまず会社に有休の申請のために連絡してから、入院手続きをしました。軽い問診の後、病室に案内されたと記憶しています。着替えなど必要なものは夜、妻に持ってきてもらいました。帯状疱疹の治療は、1週間の点滴による薬物療法でした。滴液に抗生物質の液体をまぜ、定期的に投薬されました。

また、顔にできた発疹には、軟膏が処方されたと記憶しています。発疹が治るまで、日に数回塗っていました。医者からの指示として、外出は禁止されました。食事に関しては、特に制限が無かったので、妻や両親にお菓子の差し入れをもらっていました。1週間の間に、血液検査、問診があったと思います。1週間後、痛みと発疹が引き、問題なく退院することができました。

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入院中に入浴する機会がありました。点滴の弁を腕につけたまま入浴するのですが、弁に水がかからないように、ゴム手袋を切ったものでカバーをしたのが驚きでした。どの病院でもやっている裏ワザなのでしょうか?また、病院食は薄味で、ご飯を食べるときになかなか慣れませんでした。入院後半になると、少しでも塩分の高い焼き魚はごちそうでした。退院後は、薄味に慣れてしまったせいか、普段の食事が塩辛く感じました。

就寝時間になっても昼間ゆっくりしているためあまり眠たくなかったので、布団をかぶりイヤホンをして、周りに迷惑がかかからないようこっそりスマホを見ていました。漫画アプリやゲームアプリなども使用して、遊んでいました。入院中はとにかく暇だったので、メモ帳に思いつくままに落書きをして、それをSNSにアップしていました。その日の食事を揶揄したものや、薬品の名前から勝手にイメージしたキャラを作ったりなど。その面白落書きが思いの外好評で、退院後も数年毎日落書きをアップし続けました。

入院する前、自分は注射に全く苦手意識をもっていませんでしたので、一週間の点滴生活なんて、楽勝と思っていました。初日、二日目くらいは、特に何も感じることもなく余裕に過ごしていたのですが…三日目欄から、異変がありました。点滴は同じ箇所に刺し続けるのではなく、皮膚が固くなって逆流しやすくなるため、指し口を移動するのです。

三日目から、点滴周りの皮膚が固くなり徐々に、指す皮膚が無くなってくるのです。もちろん、逆流して点滴のチューブが真っ赤になることが頻発してきます。痛くはないのですが、何か血液が逆流する独特な感覚がかなり嫌でした。最初は右腕だけで点滴をしていたのですが、退院間近になると、右腕に指す所がなくなり、左腕で点滴することを宣言されました。
この時になると、もう先端恐怖症ですね、心の中で「いやだーー!」と叫んでしまいました。
この経験のせいでしょうか、健康診断での血液検査など、注射が本当に苦手になりました。「いい歳をしてみっともない、針を見ないようにしたら?」と妻にも言われていますが、インフルエンザなどの予防接種は本当に毎年苦痛です。

3月 26th, 2019

中学2年生の夏、自宅でゆっくりしている時に少し腹痛を感じていました。最初はチクチクとした痛み程度で全く気にしていませんでしたががまんできる程度だったので、親にも特に伝えず過ごしていました。2日目になり朝はそれほど痛みも強くなかったので学校に行くと痛みが強くなって、日常生活に支障が出るレベルとなっていました。腹痛のレベルとしては痛みで腰を曲げて、姿勢を低くしなければならないほどで授業を受けているような場合では無いほどでした。あまりに痛いため、早退をして病院に親に連れて行ってもらったところ「盲腸性胃腸炎」だと診断をされました。初めて病気で入院するということもあり不安でしたが、これからの処置をどうしていくのかや、退院までの時間がごく短い時間であるということからあまり不安もなく手術に挑み、入院生活を送ることができました。

病院に行き、問診を受けたのですが診察台に仰向けになり、手で腹部を軽く抑えられながら「ここは痛い?」「ここは?」などと聞かれ、先生は教えて痛みが強くなるところを探していました。素人なので細かな場所は覚えていませんが、足の付け根の上あたりの腹部を抑えられたら痛みが強くなったのを覚えています。

先生から話された治療方法は盲腸を切除してしまうか、薬で痛みを散らすかの2つの方法でした。ただ私の場合はかなり進行しているということと、痛みを薬で散らせるか分からないそして、またすぐに痛みが出るかもしれなかったため、手術をしてしまおうということになりました。入院自体は非常に短くて1週間もなかったほどで、すぐに学校生活にも戻れました。

入院は初めてのことでした。まず手術後は驚きの連続であったと思います。手術後、起きてすぐに股間に違和感があったため布団をめくり自分の股間を見つめました。驚いたことに私の股間には太いパイプがありました。そのパイプは尿道を通り、膀胱の方にまで達しているようです。そのパイプをたどってどこに繋がっているのかを確認したところ、尿瓶へと繋がっており、いわば自動的に私の尿が尿瓶へと流れていくようになっていました。

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まだ中学生ですので非常に恐怖したことを覚えたため「この管を取るときはまた麻酔してくれるのですか?」と聞くと「いいえ、麻酔なんてしませんよ?一気に管を抜きます。それで管を抜いた後、尿を自発的に出すことが出来なければもう一度管を入れ直しとなります。次は管を入れる時麻酔無しの時なので痛いかもしれませんね」と無表情で言われたのが怖かったです。

入院中は基本的に快適で生活に困るようなことは一切ありませんでした。友達が見舞いに来てノートを見せてくれるし、母も毎日着替えを持ってきてくれました。食事の制限もそれほどなかったので、お菓子などもこっそり食べていました。しかしながら入院中に怖い思いはやはりしたことがあります。中学生ならではのことですが、入院中の夜は少し怖い思いをしたことがあります。特に何かを見たりや経験したということはありませんがとにかく薄暗く、少しの物音でも敏感に反応をしてしまいました。夜中に看護師さんが巡回に来てくれるのですが、その時の足音が看護師さんじゃなかったらどうしようと何回も考えたこともありました。

また快適な生活の中にも少し困ったことはありました。それは電話をする場所です。当時はガラケーでしたが、電話をする場所が限られており、移動には困りました。何より電話をする場所が私の部屋からとても遠く、少し友達と電話をするにしても15分ほど歩かなければならず毎日電話するのもかなり億劫になるほどでした。また育ち盛りの中学生にとっては病院食がかなり少なく毎日お腹を空かしていたのも覚えています。

3月 18th, 2019

25歳のころに持病のアトピー性皮膚炎が全身にかなりの深刻さで広がり、出勤だけでもかなりのつらさがありました。当時は仕事が忙しく、休みもあまりなかったのがさらにアトピー性皮膚炎の病状を悪化させる要因になったと思います。それまでは何とかステロイドなどの薬で押さえていましたが、それがおさまらなくなってきて、ゾンビのようなひどい皮膚になってしまったのを今も思い出すとぞっとします。全身の失神から浸出液がでてきて、スーツもくっついてしまう状態で本当につらかったです。

アトピー性皮膚炎の治療は、個人クリニックに毎週通って行っていました。仕事が忙しいときは数時間の休みをもらってでかけることもありました。最近どんどん悪化してきていて日常生活もつらいし死にたいと言うと、先生も病状を見かねて大学病院への入院手続きのための書類を書いてくれました。

その後、指定の大学病院へ行って、診察を受けました。最初に入院の期間は2~3週間程度で、その間に強めのステロイドによる治療を行うといった治療の方針の説明がありました。初診の直後も重症な肌を見て、すぐに処置室でステロイドを塗布してもらえました。病院から入院期間は2~3週間という話をされたのを受けて会社に休みをもらい、入院に入りました。上司も理解をしてくれて、同僚も協力的だったのが本当に救いでした。

入院する前日、私は一人暮らしだったので、入院の際に持って行く着替えやタオルなどを新しく用意し、パソコンが好きだったのでノートパソコンを購入したりしました。今思うと、アトピー性皮膚炎の病状はかなり苦しく全身が湿疹だらけで動くのもつらかったのに、遠足の準備をしているような楽しさがあったのが不思議と笑えます。

実際それまでは仕事が忙しくて終電に間に合えばラッキーという時期も数週間続いていたので、これでゆっくり休むことができるという気持ちも強かったのだと思います。入院した次の日、朝の食事を終えてひまなのでお日様の照っている廊下を歩いたり、庭のような場所でのんびりしていると、今までの地獄のような忙しい世界から天国にでもやってきたような不思議な気分になりました。今までは時間に追われるような生活で、身体はかゆみが強く辛かったのですが、薬で抑えられているのもあり、治療をちゃんとすればこんなに心身ともに楽なのかと心から感じられました。

ベッドに戻っては好きなプログラミングをノートパソコンでしたり、体はつらかったけれど、精神的にかなりゆっくりすることができました。薬のおかげか予定の2週間と数日で無事に退院できる状態になりました。体もですが、それ以上に精神的に休むことの効果に驚いた日々でした。

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入院中、夜中にトイレに行くときなどは怖かったです。夜の病院というのは何とも独特な雰囲気があり、本当に幽霊が存在するような感覚になっていて、用をたしている間など背中に気配を感じたりしてとても怖かったことを覚えています。そのあと、ベッドに戻るととてもほっとしましたし、ナースステーションの明かりがとても心強かったです。あと、ほかに将来的な不安でいつも不安でした。アトピー性皮膚炎については相談できても、精神的な問題は相談できなかったのでそこがつらかったです。

もしも、今一時的に強いステロイドで治ったとしても、またとても忙しい職場に戻ればすぐに病状が悪化してしまうのではないかといった不安にいつも悩まされました。しかし、体が元気になって退院したときは、とてもすがすがしい気分で、何とかなるさという気持ちになれました。2週間と数日というまとまった期間、体と心を休めたことで、こんなにも世界が輝いて見えるのかと感動しました。